真理はきれいごと!?気休めか!?  
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「長者の万灯より貧女の一灯」
(金持ちが捧げる多くの灯明より、貧しい者が真心を込めて供える一つの灯明の方が仏は喜ぶ尊いという意味。)
托鉢とは説法やお経を唱えさせてもらい、そのお礼に少しのお布施をいただくのです。修行僧はそのいただいたお金や食べ物で生活をしていました。
(釈迦は説法のみ)
この話を簡単に書かせてもらいます。
 釈迦は、インドの国で最も貧しい人たちが暮らしている村へ托鉢をするため向かいます。
そこには飢餓で苦しんでいる人々がいます。 貧しい人々はお布施するどころではないと、 釈迦に罵声を浴びせかけます。しかし釈迦は毎日毎日そこへ向かうのです。
ある日、お弟子さんが釈迦に問います。
もう一つ別の道に向かうと、そこには裕福な人々が住んでいる街があります。そこで托鉢をすれば多くのお布施をいただけるでしょう。
なぜあの最も貧しい人々の村に赴くのでしょうか。
 釈迦は答えます。
なぜあの者たちは、貧困という苦しみの中にいるのか。それは彼らが過去の生まれ変わりの中で、 欲深く人に与えるということをしなかった。
 彼らが唯一その業(ごう)から救われるためには、 自分の食べ物の中から米一粒でもいいから人に施すという慈悲心を生まなくてはいけない。と、釈迦の托鉢の話はこのような内容です。
 最も飢えて苦しむ人々に与えて救うのではなく 逆に布施をしてもらうという…。これは普通では考えられません。
 今、同じことをやったら大変なことになりそうです。
そんな綺麗ごとで救われない!と批判されます。これは生まれ変わりがあるという霊的世界を信じる人にしか通用しない話しです。
 信じる人しかその真理を活かすことが出来ません。釈迦がなぜその貧しい村へ赴いたのか、もう一つ大切な理由があるというのです。
 貧しい人々は石を投げつけんとばかりです。それでもなぜ、釈迦は足しげく通ったのか…。
それはこの最も苦しんでいる人々の中にこそ、 光を求める人がいるというのです。釈迦の話に真剣に耳を傾ける人がいるのだそうです。
もし裕福な人々の街へむかい、
 「あなたが救われる道、これが真理なのです」と教えを説いても、さほど苦しみを抱えていない人々が真剣に耳を傾けることはないのだそうです。
たとえ裕福な人々に一生をかけて教えを説いても真理に目覚めるものはほとんどいないが、あの貧困の苦しみの中にいる人々にこそ 真理を最も必要としている人々がいるのです。
自分の人生を嘆き苦しみ絶望を感じ 自分は一体なぜなのか?と理由を知りたいと切望している人々が必ずいるのです。
 暗闇の中にいるからこそ、一筋の光を求めるように。「長者の*貧女の一灯」>https://blog.goo.ne.jp/spiritual-ponopono/e/102884761df3def8d6e266c1c0956b8c 💞弥栄 !369 感謝 祝福 歓喜 999☺長根 明💞拝
この記事を目にする前日に業(カルマ)についてメルマガを書いてました!
内容もシンクロする部分がありました。
自分の人生を嘆き苦しみ絶望を感じ 自分は一体なぜなのか?と理由を知りたいと切望している人々が必ずいるのです。
この部分です。私も絶望を味わい私は、何故、生まれてきたのか?なんの為に生きているのか?それを知りたいと思い、この道に辿り着き歩き続けています。
暗闇の中でこそ光が見えてきます。
満月の神々しい光のように、、、